(以下、おれの感想です)
 
 大多数の人々は事実と真正面から向き合うことをしない。
あらゆる問題を解決するには、常に例外なくそうするしかないのに。
その代わりに、こうあって欲しいという、事実に反する幻想を望む。

かって、世界中の様々な宗教者が、その空気を読んで、人々の望みどおりの気休めの作り話を提供し、洗脳にかかった。騙されたがる者達は、望み通り上手に騙してくれる詐欺師を狂喜して受け入れた。

世間は我存在を絶対視したために、死など無いという作り話にしがみつくほかしようがなくなったのだ。
 
人々はその気休めの御神託に飛びついてしがみつき、目をつぶった。
 
 
 

 こうして宗教の洗脳が完成し、問題の解決は先延ばしにされ、局面がさらに悪化していった。

 

今だに世間に蔓延している、聞き古しの洗脳呪文。

あなたは、ありのままでいいんですよ。そのままで救われています。あなたはとっくに悟っています。あなたは永遠不滅の魂で、けっして死にません。すべてはうまくいっていて、あなたのどんな願いも、すでにかなっています。

何の問題もないと今すぐ気づいてください。

それだけでAll OKなんですよ

幸せなあなた!

幸せなあなた!あなた!あなた!

幸せな我!我!我!我!我!

 

 

 

 

 
 
 釈尊の着眼は、
このような貪瞋痴にまみれた世間と真逆だ。
 
死は100パーセント確実だから、
世間が絶対視している
我存在こそが怪しい
 
と見抜いたのだ。

 

 
 
 
昔の記事「第一歩さえ踏み出せば、後は一本道になる」で、こんな風にも書いてました。引用します。

 

 人生の問題を解決する唯一の方法は、幻想を捨てて事実を受け入れることだ。
事実を受け入れることは問題解決の第一歩に過ぎないが、少なくとも確実にいえるのは、これ以外の方法では問題解決が不可能になるということだ。

誰でも死ぬから、人生は無意味だ。
これは疑いようのない明白な事実だ。

しかし「死んでしまうんだから人生に意味無し」と口に出せば、世間で馬鹿扱いされるのがおちだろう。
世間は問題解決の第一歩が怖くて踏み出せなかったので、みんなで共同幻想に逃げ込んだからだ。
最大のピンチこそ最大のチャンスかもしれないとは夢にもおもえない臆病者達。

 
一切皆苦と明言した釈尊は逃げなかった。
いや、逃げようがなかった。
人生は無意味だとはっきり気づいた人に、逃げるという幻想の脇道がもはや存在しないので、残った事実という一本道を行くしかないからだ。
 
釈尊は最後まで真っ直ぐ突っ切って、問題を正面突破で見事に解決した。

おれも逃げることだけはしない、逃げようがない、最後までたどりつけなくても。

 

 

 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 (My Favorite Songs)
 

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